IN/OUT (2023.8.13)

William Friedkin監督の訃報で、再び脚光を浴びたオカルト映画の金字塔 ”Exorcist”。その続編として”The Exorcist: Believer”が間もなく公開されます(続編と言えば、私は、1977年 John Boorman監督による"EXORCIST II: THE HERETIC"も大好きなのですが、新作は、それは無かった事にして製作されているようです)。

で、何が嬉しいかと言うと、映画館に行くと”The Exorcist: Believer”の予告編が流れる。そこには、Mike Oldfieldの大傑作”Tubular Bells”も使われていて、断片とは言え、映画館の大音響で、あの名アルバムの一部が聴ける。これが堪らない。

”Exorcist”に使われたことで、恐怖映像には欠かせない音楽になってしまった”Tubular Bells”ですが、これ、アルバムを通して聴くと、本当に美しく感動的な(そして、恐怖の要素は皆無の)大名曲なんですよねぇ。この素晴らしさを多くの人に知ってもらいたいと切望する、今日この頃です。


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「私たちは何者?ボーダレス・ドールズ」@ 渋谷区立松濤美術館23.8.11

松濤美術館日本の人形の展覧会を観に、松濤美術館に行ってきた。

人形は、特に日本では、昔から今日に至るまで、民族、考古、工芸、彫刻、玩具、現代美術と、さまざまなジャンルのボーダーラインを縦横無尽に飛び越えて存在してきたものだ。その複雑な様相を、芸術という枠に押し込めず、多様性を持つものとして紹介し、私たちが囚われている「美術」という概念に揺さぶりをかけようという企画。区立の美術館としては、かなり攻めていると思う。

その企画意図通り、平安時代の人形代(ひとかたしろ)から、生人形、四谷シモンの球体関節人形、さらに、村上隆と海洋堂が組んだ「Ko²ちゃん」まで、時代も様式も多様な人形が展示されている。因みに、秘宝館に収められていた人形や、ラブドールも出展されているが、これらは、通常の展示とは別の、18禁の別室に飾られている。

まず、印象的なのは、古代の呪詛に使われた人形代が持つ禍々しさ。そして、津軽地方に伝わる「サンスケ」の奇妙な面白味(山に12人で入ると、神の怒りにふれ、災いが起きるという言い伝えがあり、どうしても12人で山仕事をする場合は、人形を持っていって、13人目として扱った。意外にも、割に最近、1970年代まで作られていたそうだ)。

また、第二次大戦中の慰問人形は、見た目はボロボロだが、その解説「少女が作った素朴な人形が、前線の兵士に送られた。彼らは、それを見て、自分たちが守るべきものを思い起こし、奮い立った」を読むと、ちょっと涙ぐんでしまう。

この日は、学芸員によるピンポイントトーク 「呪って、守って、愛して♡ 人形は人間? —呪詛人形、お雛様、現代美術まで」が行われていた。この展覧会の英語タイトルを考えるとき、「私たちは何者?」を”Who we are?”としてネイティブ・チェックを受けたら、人形は物体なので”We”だと意味が伝わらないと指摘されたという経緯から、人形に魂を感じる日本人の特性を実感したという話(結局、”The Infinite World of Japanese Dolls: From Religious Icons to Works of Art”という英題に)。そして、病や災いといった不条理と対峙するときに人形が作られるという分析など、とても興味深かった。これが無料で聴けるのはお得。さらに、私は対象者では無いが、毎週金曜日は(祝日でも)渋谷区民は入場無料。小規模ながら、とても良い美術館だと思う。


”Barbie”23.8.12

人形繋がりという訳で()、バービー人形をテーマにした実写映画を観てきた。日本公開前、米国での悪乗り(同時公開された”Oppenheimer”と掛けて、原爆のキノコ雲 + Barbieのコラ画像がSNS上で流行り、それに、映画会社公式も乗っかったというもの。一人一人はまともな人達でも、「大衆」になった途端に馬鹿になるのは、日本も米国も一緒だ…)に、日本人としては観賞意欲を大いに削がれてしまったのだが、まあ、作品に罪は無い。

映画の冒頭から、度肝を抜かれた。まさかの、我が生涯のベスト映画 ”2001: A Space Odyssey”の完璧なパロディで始まる。これは只者では無い。というか、お子様相手の映画じゃないぞ、と言う製作陣の決意(と狂気)が、ガンガンに伝わってくる。もう、この時点で傑作確定だ。

物語は、”Barbie Land(BarbieとKenが暮らす、全てがピンクでパーフェクトな形而上学的世界)”と”Real World(我々が暮らす、理想通りには行かない現実の世界)”を股にかけ、骨太の社会派メッセージもぶち込みながら、疾走していく。そもそも、このご時世でバービー人形をメインにした映画を作ろうとすると、ポリコレ方面に相当な目配りが必要なはずだ。それが、面倒くさいことにならないか不安に思っていたのだが、そんな予想を遙かに越える見事な設定とストーリー展開。そして、それに応えるBarbie = Margot Robbieと、Ken = Ryan Goslingの熱演と言うか怪演が、お見事。完璧なブロンド美人のMargot Robbieと、お馬鹿キャラでの暴走が似合うRyan Gaosing、お二人とも、まさにハマり役。因みに、Birbie Landには、様々な設定で商品化されたBarbieとKenが存在するので(Margot Robbieは、最も"typical"なBarbieだ)、エンディング・クレジットには、Barbie役 11人とKen役 6人の俳優がずらっと並ぶという、これまた狂気じみた光景が展開する。また、メタ・フィクション的なナレーションをHelen Mirren様が行っているのも、聴き所。”Mojo Dojo Casa House”というパワー・ワードにも抱腹絶倒。とにかく、私のツボを突いてくるネタ、てんこ盛り。

そして、この映画で最も株を上げたのは、Barbie人形の発売元 Mattel社だろう。自社自身を、自虐を超えたレベルで笑いのめし、もはやメタ・フィクションの上にさらにメタを被せたような変態ぶり(誉め言葉)を発揮している。Barbieの産みの親にして元社長のRuth Handlerの脱税問題までも容赦なくネタにしながら、しっかり感動的なエピソードに仕立てる力量は恐るべし。今の世の中に切り込む覚悟は、”Super Mario”の任天堂よりも、数段、上だ。

終盤、ややもたついた感もあったが、予想を遥かに超えた快作だった。



”Barbie”を鑑賞したのは、六本木の映画館でした。場所柄か、西欧人の観客も多く、良いタイミングで笑いが起こっていた(サブカル系知識が問われるネタも多かったと思う)のも、面白さを増してくれました。