東京都議会議員の選挙でした。昔は、大政党のおじさん候補者と、何を言ってるのか意味不明の泡沫候補、という顔ぶれで、ある意味分かりやすかったと思うのですが、今では、ポピュリズムと陰謀論と気持ち悪い意識の高さにまみれた候補者が乱立していると感じます。もちろん、様々な意見を持つ人が自由に立候補できるのは、良いことなのですが…
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1948年のソ連統治下のアルメニアを舞台にした映画を観てきた。邦題は「アメリカッチ コウノトリと幸せな食卓」
主人公は、1915年、4歳の時にオスマン帝国によるアルメニア人虐殺を逃れ、移住先のアメリカで育った男。1948年、スターリンによる祖国帰還運動(労働力確保が目的だった)を機に、自身のルーツを知るためアルメニアに戻ってきたが、ひょんな事で(他人に施した親切が仇になり)無実のスパイ容疑で逮捕・収監されてしまう。辛い監獄生活の中、彼は独房の小窓から見えるアパートの部屋を覗くことに心の安らぎを見いだし、そこで暮らす夫婦に一方的に共感を抱いていく。というお話。なお、監獄の窓からアパートが覗けるのは、主人公達囚人がシベリア送りになる直前に起きた地震によって監獄の外壁が崩れたから。その復旧作業のため、シベリア送りが保留になったという設定。
設定はシビアだが、コメディ要素も多い作品だ。特に、アパートの夫婦が喧嘩し、妻が出て行ったのを覗き見た主人公が、なんとか仲直りさせようと奮闘する所は、楽しい。
人はどんな絶望的な状況でも、心の持ちよう次第で、希望を見いだし、生きていくことが出来るのだと感じる一方で、強権政治の恐ろしさ、不条理さに震撼する。また、ソビエト共産主義体制側の人間も、裏では、子供相手にアメリカ風のカウボーイごっこに興じる二面性を持っているという描写が、その体制が抱える矛盾を暴いている。なお、監督・脚本・主演のMichael A. Goorjianの父方の祖父母は、実際に、アルメニア人虐殺の生き残りだったということだ。
ちょっと前なら、ここまでの無邪気な感想で終わっていたと思う。しかし、世界中、様々な局面で分断が進み、権力者側以外の人達が抑圧されることが普通になってしまった現在、この映画は、遠い国の過去の出来事だと思えなくなってくるのが怖いところだ。自由と尊厳を奪われ、暴力にもさらされる主人公が、窓から見える切り取られた風景に心を癒やされ、充実感すら覚える様は、現実の世の中から目を背け、スマホの小さなスクリーンに逃避している現代の人々と同じではないか。
Brian Enoのドキュメンタリー映画を、109シネマズプレミアム新宿で観てきた。ロードショー公開は7月11日だが、それに先駆けて開催された、Gary Hustwit監督と字幕監修を務めたPeter Barakanのトークショー付きプレミアム上映である。
この映画、一番の特徴は、上映する度に内容が異なるという事。Brian Enoに関する500時間に及ぶアーカイヴ映像(ほとんどは、Eno自身が保管していたもの。それをデジタル化するだけで2年間を費やしたという)と、3年間に渡り撮り溜めてきた30時間のインタビュー映像を、このために開発した「Brain One」というAIソフトウェア("Brian Eno"のアナグラムだ!)が自動編集して、毎回、違う構成の映画として上映するというのだ。その組み合わせは、一説には 52x10の18乗のパターンがあるという。通常は、85分間という上映時間だが、異なる上映時間をAIに指示することも可能。ベネチアでは一週間ぶっ通し 168時間の上映を敢行したそうだ。ただし、今回は日本語字幕を付ける関係で、素材の範囲を絞り込んで、AIに喰わせているとのこと。なお、最低限の枠組みは監督の意図が反映されていて、映画の冒頭とラストのシーンは決まっているのと、必ず上映される部分が(順不同だが)3割を占めている。あとの7割が、AIがその場で選ぶということになっているそうだ。
ある人物を、映画監督一人の見方だけで捉えて固定する通常のドキュメンタリーに否定的だったEnoも、この仕組みなら、ということで、プロジェクトにOKを出したそうだ。確かに、実験的なアプローチの作品に、Enoはうってつけだ。
さて、本編だが、Roxy Musicのメンバーとして派手な化粧でステージに立つ姿、David Bowieとのレコーディング風景、過去のインタビュー映像、最新のインタビュー。どれも、見応え有り。AIがその場で編集するので、時系列がシャッフルされてしまうのだが、そのつながりに、なんとなく意図のようなものを感じてしまうのも面白い。そして、Brian Enoが、滅茶苦茶頭が良くて、それでいて、語り口はソフトでジョークのセンスもある、まさに才人であることを改めて実感する。
上映終了後、Peter BarakanとHustwit監督のトークショー。中々、興味深い話が続く。最後に観客からの質問も受け付けたのだが、この監督、良い人オーラが出ていて、どんどん質問者を指名してくれる。その一方、終了時間を気にする生真面目Peterが焦っていたのが、ちょっと面白ポイントだった。
音楽なら同じ曲でも演奏する度に違うものになるのと同様の事が、映画でも出来るようになったというHustwit監督の主張は分からなくも無い。が、私としては、膨大なアーカイヴから取捨選択して、監督の意思を込めたパッケージを作ることを放棄した試み、という気がしてしまう。しかし、悔しいながら、観客に何度も映画館に足を運ばせるというマーケティング的な効果は期待できる手法だろう。私も、今回のヴァージョンでは出番が少なかったLaurie Andersonや、U2との絡みを観たいから、また109シネマズに来るのも、やぶさかでは無いな…
1920年代以降、Le Corbusierなどの建築家が、新たな技術を用いて、機能的で快適な住まいを探求していった。そうした住宅をめぐる革新的な試みを再考するという展覧会を観に、国立新美術館に行ってきた。
展示のメインは、1920年代から70年代にかけて設計された、建築史にその名を残す「戸建て住宅」の名建築14邸。右の模型は、菊竹清訓、菊竹紀枝による「スカイハウス(東京都文京区)」
展示空間内に、島状に展示台が点在し、そこには、精巧な模型、図面や資料類、家具・調度類などが並ぶ。超意識の高い住宅展示場の趣だ。左の模型は、Frank Gehryによる「Gehry Residence(米国カリフォルニア州)」
建築を専門としない人でも見所が分かるよう、平易な言葉で解説されたガイドブックがあるのが、ありがたい(本当は、子供向けなのかも?)。また、模型以外にも、当時のドキュメンタリー映像など、分かりやすく、見応えのある展示物も多数。右の模型は、Eero Saarinen / Alexander Girard / Dan Kileyによる「Miller House and Garden)(米国インディアナ州)」
名建築だけに、どれも、実際に住んでみたいと一瞬は思うものばかり。まぁ、実際に長期間住むとなると、メンテナンスが大変だろうなという気がするし、そもそも、広大な土地も含め、こういう家を構える財力は無い…
展示室は、有料の1階だけでなく、無料公開されている2階もある。こちらのメインは、ドイツの巨匠建築家 Ludwig Mies van der Roheが1930年代に構想するも未完に終わった「Row House」の原寸大(16.4m四方)展示。クラウドファンディングで1千万円以上を調達して完成させたとのこと。
さらに、カッシーナやYAMAGIWAなどの企業ブースもある。いよいよ、美術館というより住宅展示場っぽくなってくる。
Row House内の中庭は、1日の時間変化を表すように、照明が夕暮れ → 夜 → 朝日 → 日中 と変わっていく。それを、ぼんやり眺めながらバルセロナ・チェアにのんびり座るも良し、お高そうな家具類を見て、自宅に設置した場合を脳内シミュレーションするも良し。束の間のリッチ感も味わえる、異色の企画展だ。これを実現した国立新美術館、凄いな。
結局の所、消去法で選んで投票する。というのは、昔から変わらないなと思う、今日この頃です。 |