矢野さんと私



私はいかにして矢野さんのファンとなったか

遭遇篇

矢野さんが「Japanese Girl」を発表した1976年、私は中学二年。しかし、当時の私は自分でレコードを買うような少年では無かった。別に音楽に興味が無かった訳では無い。当時の平均的家庭の常として、ステレオセット(あの頃はオーディオセットなんて言ってなかった)は応接間に一式あるのみで、それは姉の占有物として家庭内には暗黙の了解があったからだ。私の担当は「読書の部」。そのため、小学生から中学生にかけて私の耳に入ってくるのは、姉が好きだった、YESやEL&P、King Crimsonといったプログレばかりであった。

しかし、デビューしたての矢野さんの印象は強烈に残っている。あれは、NHKだったか、屋外で矢野さんがピアノを弾き語りしている模様がオンエアされていたのだ。何故我が家があの番組にチャンネルを合わせていたのかは覚えていない。「天才少女歌手がデビューしたんですって」と、家族の誰かが解説していた言葉は覚えている。それは、テクニック至上主義的でやたら重厚な構成を取りたがるプログレッシブ・ロックとは正反対の自由奔放な演奏で、私の耳に強烈なインパクトを与えたのだった。

が、そこでレコード屋に走ったかと言うと、全然そんなことはなくて、私の小遣いは相変わらず、アガサ・クリスティのミステリに化け続けるのであった。

発動篇

高校生になると、徐々に自分でレコードを買うようになる。いわゆる洋楽ばかり。相変わらずプログレ系を聴いたり、アバを聴いてみたり、と我ながら焦点の定まらない嗜好。ただ、頑固にも邦楽は一枚も買わなかったな。ところが、高校三年の秋、「FM fan」に「矢野顕子、ニューアルバムをレコーディング」という記事を見つけた時、「このアルバムは買わねばならぬ」と感じてしまう。あのテレビの印象が潜在意識に残っていて、矢野顕子という活字に反応したのだろうか?とにかく、「ごはんができたよ」を発売日に購入。何故かボール紙でできたサングラス風のおまけ(偏光フィルターか何かがついていて、風景がキラキラと光って見える)が付いていた。うーん、何だったんだろう、あれ? そして、自宅で針を落とした瞬間、はまっちゃいました。こんな世界があったのかぁぁ!という感じで、それから一ヶ月は毎日学校から帰ると、とにかく全曲聴きとおすという日々が続く。

その後、「春咲小紅」のヒット、「また会おねツアー」での大阪公演とイベントが相次ぎ、矢野さん熱はますます高まる大学時代を送るのであった。特に「また会おねツアー」で聴いたオフコースの「Yes-No」のカバーは、レコードとは違う矢野さんの魅力に触れて感銘を受ける。大学時代の締めくくりは、84年の「オーエスオーエスツアー」の大阪公演。

接近篇

'85年、就職にともない東京に転居。「BROOCH」や「東京ミュージック・ジョイ」等、矢野さんのライブに行く機会が増えて嬉しい。特に「ジャンジャン」でのライブは良かった。

ある日、渋谷のパルコ方面をぶらぶら歩いていると、突然「矢野顕子」の文字が眼に飛び込んできた。それはジャンジャンの今日の出し物の掲示だったのだが、その瞬間まで、私はそんなライブスペースがあることすら知らなかった。とにかく、話を聞いてみると、その日の夜、矢野さんの公演があると言う。が、「当日券はありません」そうは言っても、こんな偶然を無駄にしてなるものか、と表で待ってみる事にする。やがて列ができ、整理の人から「チケットを持っていない人は帰って」と言われるが、脇の方でじっと待つ。やがて列が動きだし、最後の人が入った後、「まだ居たの? しかたないなぁ。」ということで入場OK!中は100人ちょっとしか入れない小さなスペース。必然的に矢野さんとの距離は極めて近い。ホールコンサートで最前列に座るより、ジャンジャンの立ち見の方が近いぐらい。演奏も、ホールとは違ったリラックスしたもので大感激。さらに、途中から山下達郎&坂本龍一両氏がゲスト出演するという豪華構成! この三人の集客力を考えれば、百数十人しかないキャパの会場でのこのメンツというのは凄すぎる。

聞けば、ジャンジャンでの公演は毎年行っていると言う。が、ぴあ等でチェック入れても、掲載された時点では既にチケットは完売しているらしい。それ以来、渋谷に出かけるたびにジャンジャンの公演スケジュールをチェックする事が習慣になった。が、残念ながら一度も前売りをget出来た事は無かった。しかし、大貫妙子さん、渡辺香津美氏、サエキけんぞう氏、大村憲司氏、といったゲストの方々を全て当日券で見る事に成功。実に素晴らしいライブスペースだ。(逆に相性が悪かったのがピットイン。当日券目指して並んでも、結構事務的に「ここまで」と切られてしまい、一度も入れたことが無い)

'87年、矢野さんは音楽活動の中断を宣言し、「グラノーラツアー」を敢行。新宿厚生年金で見たコンサートは実にノリノリの素晴らしい物だったが、これでしばらくこういう機会も無いのか思うと寂しかった。

復活篇

心配された休業は一年で解除となり、'89年「welcome back」が発売される。音作りというかアレンジの雰囲気がそれまでとは全く変わってしまった事に戸惑ってしまった。

続く「LOVE LIFE」は、従来の雰囲気と「welcome back」の雰囲気がうまく融合しているようで一安心はしたけど、以前のようにアルバムが擦り切れるぐらいのヘビーローテーションで聴くということが無くなってしまった。(こういう表現はCDし か知らない若者には通じないかも)久々のツアーには感激したんだけど...。「Super Folk Song」は、アルバムもコンサートも昔のジャンジャン等での演奏を思い出させる良い企画で楽しめた。が、「LOVE IS HERE」も、あまりのめりこめなかったな。とは言え、この時期のアルバムも、「やのコレ」作るにあたって全曲聴き直した時には「良いアルバムじゃないか」と感じ、その後は、結構、聴いているので、あるいは仕事が忙しかったせいなのかもしれない。

しかーし、「LOVE IS HERE」ツアーで、久々に大きな衝撃を受ける。実に素晴らしい演奏で、矢野顕子(というか、矢野さんの音楽に対する思い入れ)完全復活!という感じ。続く「ELEPHANT HOTEL」も大いに気に入った。

補完篇

インターネットに接続できるようになったのは96年1月。その時から自分もウェブ上にホームページを持ちたいと思うものの、何を掲載しようか悩んでいた。そんな96年2月24日、25日、「ピアノ・ナイトリィ アンコール」をNHKホールに観に行く。この瞬間、「矢野さんの作品紹介を皆に見てもらいたい」と熱望。サーチエンジンで探しても、矢野さんの作品について、簡単な作品リストが載っているページ以上のものは見つからない。自分だったら、アルバムや曲のタイトルだけじゃなくて、演奏者のデータも見たいし、簡単な感想があるとおもしろいよなぁ、と考えているうちに、ページのイメージが湧いてくる。

かくして、「秀丸」と「Paint Shop Pro」、そして「翔泳社刊、インターネットホームページデザイン」を手に、ひたすらライナーノーツのデータを書き写し、曲を聞いて感想を書き、の一ヶ月。96年3月23日、ついに公開。

公開当初は、単なるコレクション自慢という性格が強かったのだが、色々な人から「こういう情報が洩れているぞ」とか、「あの件についても教えて」等というメールをいただくようになり、徐々にデータベース的側面も充実させていくことになった。今まで自分が知らなかった事も集めていくこの過程はなかなか面白い物であると同時に、私の矢野さんへの関わり方をかなり変えてしまった。アルバムとコンサート以外でのメディアでの露出に関しては割と冷淡であったのが、色々と集めるようになった。本屋へ行けば「矢野顕子」という活字のある雑誌を探す。矢野さんが参加している作品、カバーした元の作品等も買い集める......。特に、カバー元については、今までの自分の守備範囲以外の音楽を色々と聴くことになり、中々楽しめる。が、同時にこういった行為は私の財布を直撃した。さらに困ったのは、新曲を聴いても曲にのめり込む前に「どういうコメントを付けようか」と考えてしまう習性。いや、CDならば何度でも聴けるからそれでも構わないが、コンサートに行っても演奏曲目を記録するため暗闇で手帳を広げ、頭の片隅では印象を文章化しようとしてしまうのは我ながら悲しい。

1998年春、社命により、米国の関連会社へ赴任する事になる。赴任までの数ヶ月、やのコレを通じて知り合った方々に送別会を開いていただいたり、励ましのメールをいただいたりして、とても嬉しい。が、赴任のタイミングで出前コンサートとジァンジァン公演の復活が発表され、なんとも悔しい。

美国編

98年5月、仕事の都合で、アメリカ合衆国は、オレゴン州に転居する。リアルタイムで飛び込んでくる、出前やジァンジァンの報告に「インターネットに国境無し」を実感させられ、嬉しい反面、歯がゆくもある。

任地のポートランドは、非常に住み心地の良いところで、いつか、ここに出前を呼べれば、等と思ったりもしたのだが、赴任早々、親会社の業績悪化のあおりで、勤務する工場の閉鎖が決まる、という情けない状況になってしまった。日本に比べ通信費が圧倒的に安いという状況で、結局、日本にいるときよりもネット依存度が高い生活を送っていたのだが、それも9ヶ月で終わり。

星州編

99年2月、異例の from 海外 to 海外の辞令を手に、シンガポールへ。到着早々、日本人会の会館にオーディトリアムがあるとの情報を入手し、ニューフレンズ宛に出前依頼の手紙を送った。さらにその後、Raffles Hotelに雰囲気の良い小ホールがあると聞きつけ、さっそく資料を取り寄せ、それもニューフレンズに送付。いかんせん、New Yorkとはとんでもなく距離が離れているし、採算のことなど考えると出前実現性は高いとは言えないだろうが、希望は捨てず返事を待つことにする。

1999年のさとがえるには、休みを取って名古屋とNHKホールに行くことにした。ホテルやら航空券を早々と手配し、友人にチケット取得を頼み、そうした準備が終わった後にクアトロの追加ギグが決定。何とか休暇を一日延ばすように算段を取り、クアトロ一日目にも行けることになった。そしてこのスケジュール見直しと、日本へノートPCを持って行ったのは、大正解だったのである。

クアトロ公演の前日、after showに招待していただけるというメールが届いたのだ。矢野さんご本人とお会いし、お話しさせていただけることになるなんて、想像もできなかったことだ。しょぼいサイトながらも継続は力なり、ということか。すっかり緊張してしまい、何を話したのかもろくすっぽ覚えていないが、ご本人も事務所の方も、このサイトに関して悪印象は持たれていないようなので一安心。

2002年には、友人が旭川での出前コンサートを主催した。海外在住なのにスタッフに参加。前日から乗り入れ、立て看板を作成したり、当日の物販を担当したり。これだけでも貴重な経験で楽しかったのだが、コンサート後の打ち上げには矢野さんも参加。緊張ため、あまり近くに行くこともできなかったが…

その後も、ロンドン公演を弾丸ツアーで見に行くなど、日本にいた時以上にコンサート通いに情熱を傾けることになる。しかし、出前を呼ぶ夢は実現せず。

忙殺編

2005年6月、日本に帰任。自分の裁量の範囲が大きかった駐在員時代と比べ、一気に忙しくなる。残業、休日出勤の連続に加え、なかなか新しいPCを調達せず、モバイル用のマシンでサイト更新を続けているため作業性が悪く、更新が滞り気味となる。


アンケートに自分で答える

「Message from You」で取っているアンケートには私自身の回答は反映させていません。私の回答はこっちに書いておきます。

好きな曲

うーん、我ながら難しい質問だ(^^;; 一曲じゃ皆困ると思って三曲にしたんだけど、それでも絞りきれないなぁ。とりあえず

ひとつだけ
これは外せないっす。最初にはまった曲ということで思い入れもあるし
電話線
初期の傑作としてこれも押さえておきたい。メロディーもアレンジも演奏も見事に決まってますね。
で、あと一曲かぁ。うーん、「さっちゃん」や「いもむしごろごろ」も捨てがたいし、最近の曲も入れたいんだけど
Greenfields
かな。なんか、保守的な三曲になっちゃったな。

好きなアルバム

ごはんができたよ
これも昔のになっちゃいました。完成度とか、他人に薦めるには、といった観点だとまた違ってくるのだけど、思い入れで選ぶとこうなっちゃうな。

カバーしてもらいたい曲

Yes No (オフコース)
ライブでは、もう既にカバーしちゃってるんだけど、もう一度聴きたいということで。当時は軟弱ニューミュージックの代名詞のように言われていたオフコースだけど、実はすごくクオリティの高い曲を演っているということに気付かせてくれたのは矢野さんでした。

矢野さん以外に好きなミュージシャン

ここは、アンケートの回答欄が小さいにも関らず、複数のミュージシャン名を入れてくる人が多いです。気持ちは良く分かる。が、ここは一人に絞るなら

Kate Bush
かな。矢野さんと違って、デビュー当時の天才的なきらめきが最近の作品では感じられないのが残念なところだけど

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